■国籍: 日本 | ■生年月日 :1977年1月28日 | ■出身地: 東京 |
■身長 :164cm | ■体重 :59kg | ■血液型: A型 |
■趣味 :ドライブ、サイクリング、食事 | ■愛車: ホンダ・ビート、ミニ・クーパー |
2002
2002年、琢磨は意気揚々とデビューシーズンを迎えたが、この年はジョーダン・グランプリが大きな転機を迎えた年でもあった。まず、空力デザイナーのエグバル・ハミディが中心となって開発されたジョーダンEJ-12は、良路では卓越した空力性能を発揮して侮りがたい速さを見せたものの、多くのサーキットでは様々な不具合を露呈、チームメイトで天才との呼び声も高いジャンカルロ・フィジケラをもってしてもこの年は4位が最高位で、シーズン中の入賞回数はわずか4回に留まった。これに対し、F1初年度の琢磨にとって状況はさらに厳しく、しかも信じられないほどの不運が重なった結果、一度もポイントを獲得できないまま最終戦日本GPを迎えたのである。しかし、このレースを前にしてチームは久々のテストを実施、ここで最新のブリヂストン・タイアの感触を確認した琢磨は、確かな手応えを掴んだうえでホーム・グランプリに臨んだのであった。
▲2002_F1 Suzuka
その成果は、これまでの苦戦が嘘のような健闘振りとなって表れた。予選では、さすがにフェラーリ、マクラーレン、ウィリアムズの3強を破ることはできなかったものの、その他のチームを圧倒して7番グリッドを獲得。決勝でも完璧なレース運びを見せ、トップ3チームの一角を崩して5位入賞を果たした。その超人的ともいえるドライビングに詰め掛けた15万人は酔いしれ、サーキットは1時間半にわたって熱狂的な雰囲気に包まれたのである。
▲2002_F1 Suzuka
2003
2003年、ジョーダン・グランプリで2年目のF1シーズンを迎える計画だった琢磨は、難しい選択を迫られる。昨年から資金難に苦しんでいたジョーダンの財政状況がさらに悪化、さらにこの年はフィジケラがチームのNo.1待遇を受けることが決まっていたので、琢磨が前年度以上の苦境に立たされることは火を見るより明らかだった。いっぽう、同じく琢磨の才能に強い関心を示していたBARホンダは、2003年に向けてジャック・ヴィルヌーヴとジェンソン・バトンのドライバー・ラインナップをすでに確定していた。したがって、BARに移籍すれば2003年はとりあえずリザーブドライバーとしての契約となるものの、チームの将来性は明らかにジョーダンを上回る。レースドライバーに拘って下降曲線を描くジョーダンと命運を共にするか、それとも一旦はリザーブドライバーのポジションに甘んじてBARホンダのオファーを受け入れるか。琢磨は悩みに悩みぬいた末、後者の道を選ぶ。幸い、エディー・ジョーダンもこうした琢磨の苦しい胸の内に理解を示し、両者は互いの健闘を約束しながら、別々の道を歩む決定を下した。
▲2003 F1 Australian GP
2003年開幕戦オーストラリアGP、しかしスターティンググリッドに琢磨の姿はなかった。彼はBARホンダのピットで、ヴィルヌーヴとバトンの戦い振りを見守っていたのだ。実戦の場から離れることは、生まれつきのファイターである琢磨にとっては言葉で言い尽くせないほど悔しい経験だったに違いない。しかし、琢磨は自分の未来を信じて、新たなドライバー人生を歩み始めたのである。幸い、ホンダの強力なバックアップを得たBARは、昨年にも増してテストプログラムを充実させるというから、テストドライバーを務める琢磨にとっても忙しい日々が待ち受けているはず。そして毎週のようにグランプリ・コースとテストの舞台となるサーキットを往復しながら、2004年開幕戦のスターティンググリッドに向かう自分の姿を、琢磨は心の中で描いているに違いない。
▲2003 F1 Australian GP
突然のチャンスが巡ってきたのは、2003年最終戦日本GP直前の木曜日。その数日前にチームが佐藤琢磨とジェンソン・バトンのコンビで2004年シーズンを戦うと発表したのが影響したのか、本来のレギュラードライバーであるジャック・ヴィルヌーヴが日本GPへの不出場を表明、このためリザーブドライバーである琢磨が急遽、鈴鹿を走ることが決まったのだ。琢磨は土曜日の予選こそ不本意な13位で終えたものの、決勝ではピンチヒッターとは思えない快走を披露。しかも、レース序盤はフェラーリのミハエル・シューマッハー、中盤にはウィリアムズBMWのラルフ・シューマッハーという強敵の追撃を受けながらもこれを退け、6位入賞という大金星を挙げたのである。これでラッキーストライクB・A・Rホンダは逆転でシリーズ5位の座を掴むこととなった。
2004
そして2004年、佐藤琢磨はラッキーストライクB・A・Rホンダのレースドライバーとして再びF1GPに挑んだ。この年のB・A・Rホンダは飛躍的にパフォーマンスが向上したこともあって、琢磨はトップドライバーたちと互角の戦いを演じていく。特に目覚しかったのが予選結果で、第5戦スペインGPでは3位、そして第7戦ヨーロッパGPではフェラーリのミハエル・シューマッハーと並ぶフロントロウを獲得。日本人初の快挙にファンは沸き立った。このレースではシューマッハーのチームメイトであるルーベンス・バリケロと激しい2位争いを展開、結果的にはバリケロと接触して順位を落としてしまったが、3位では飽き足らずに2位を目指した琢磨のファイティングスピリットに惜しみない拍手が贈られた。
▲2004 F1
ただし、前半戦はエンジン・トラブルが連続し、ポイント圏内を走行していてもフィニッシュできないレースが続いた。そうした悪い流れを断ち切ったのが、第9戦アメリカGPだった。ウィリアムズのラルフ・シューマッハーがレース中に大怪我を負うなど、波乱の展開となったこのレースで、琢磨は2台のフェラーリに続く3位でフィニッシュ、日本人F1ドライバーとして実に14年振りとなる快挙を成し遂げたのだ。ただし、その後チームはコンストラクターズ選手権で2位を目指す姿勢を明確にし、琢磨にも表彰台より確実な入賞を期待するようになる。それでも果敢に戦った琢磨はイタリアGPと日本GPで4位に入ったものの、残念ながらアメリカGP以降は表彰台に手が届かないままシーズンを終えた。
▲2004_F1_Indianapolis
2005
目標どおりコンストラクターズ選手権2位を勝ち取ったB・A・Rホンダは、レースでの優勝を最大のテーマとして続く2005年シーズンに挑んだが、空力関係のレギュレーション改正への対応が遅れてパフォーマンス不足に苦しみ、表彰台はおろかポイント獲得も覚束ない状態が続く。しかも、第4戦サンマリノGPでは最低車重違反の疑いを掛けられて失格に処されたばかりか、続く2戦の出場停止をも命じられてしまう。それ以外にも予選中の天候急変やウィルス性の熱病など、常識では考えられないような不運が連続。この結果、入賞はハンガリーGPの1回のみという屈辱的なシーズンを送ったのである。
▲F1 Hungarian GP
琢磨を襲った不運はこれだけでは済まなかった。チームメイトのジェンソン・バトンは翌年ウィリアムズに移籍する契約が存在していたため、B・A・Rホンダはフェラーリからルーベンス・バリケロを招き入れることを決定したが、その後、バトンはB・A・Rホンダへの残留を画策。結果的には、この影響を受けた琢磨が2006年のシートを失う格好となったのだ。琢磨の未来に思わぬ暗雲が立ち込めていた……。
しかし、グランプリ界が琢磨の存在を忘れてしまったわけではない。下位チームのなかには琢磨にレースドライバーのポジションをオファーする者もあったし、テストドライバーであればトップチームとの契約も可能であった。しかし、いずれの場合も、レースを戦いながら未来を切り開いていく道筋とは言い難い。そうしたなか、急遽浮上したのがスーパーアグリF1チームからの参戦だった。
このプロジェクトの中心人物は、1990年日本GPで日本人として初めてF1表彰台に上った鈴木亜久里である。亜久里は日本人のためのF1チーム設立の意義を説き、ホンダやブリヂストンのサポートを得て2006年F1グランプリへの参戦を計画。そしてレースドライバーに佐藤琢磨を迎え入れようとしたのだ。しかし、時間が限られたなかでのプロジェクト立ち上げだったため、亜久里や琢磨は様々な難問に直面、特にFIAへのエントリー届出は一旦申請が却下されるなど、チーム設立の道は困難を極めた。それでも関係者が一丸となって努力した結果、2006年1月27日にはエントリーが正式に受理され、2月14日には待望のマシーン“SA05”が完成してシェイクダウンテストを実施、翌15日にはチームと琢磨がドライバー契約を正式に発表するなど、事態は急速な進展を見た。
2006
そして2006年3月12日、佐藤琢磨とスーパーアグリF1のチャレンジは、開幕戦バーレーンGPを舞台にスタートする。ポールシッターから6秒遅れの20番手で予選を通過した琢磨は、決勝でも準備不足に起因する様々なトラブルに悩まされてピットインを繰り返したが、トップから4ラップ遅れの18位で完走し、見事SAF1の初陣を飾った。その後、第12戦ドイツGPではリアエンドを一新したSA06を投入したものの、根本的なパフォーマンス不足は解消できず、苦戦が続く。けれども、終盤戦は琢磨の超人的な戦いぶりに鼓舞されてチームも奮闘、第17戦日本GPは15位、最終戦ブラジルGPでは奇跡とも言える10位完走を成し遂げて初年度を終えた。
▲F1 Brazilian GP
2007
続く2007年、SAF1は相変わらず資金難に苦しんでいたが、ホンダF1の2006年モデルをベースに開発されたSA07を得たことで、昨年に比べるとチームの戦闘力は飛躍的に向上した。それでも、さすがにトップチームからは大きく引き離されていたが、開幕戦オーストラリアGPの予選ではチーム設立以来、初のQ3進出を果たして10番グリッドを確保するなど、SAF1は中位グループの一員としてその存在感を強めていった。そして第4戦スペインGPでは、彼らの持ち込んだ空力パッケージが予想外の好パフォーマンスを発揮、13番グリッドから追い上げた決勝では8位でフィニッシュし、SAF1は設立から1年半で初の入賞を果たすことになった。
▲2007_F1_Australia
琢磨の敢闘はこれだけでは終わらなかった。大混戦となった第6戦カナダGPで、琢磨はセーフティカーが導入されるたびに好判断を下し、終盤は目の覚めるような追い上げを披露。トヨタのラルフ・シューマッハーにくわえてマクラーレンのフェルナンド・アロンソをも華麗にパスし、6位でチェッカードフラッグを掻い潜ったのである。アロンソをパスする様子はテレビの国際映像でも捉えられ、新興・弱小チームのSAF1が押しも押されもせぬ名門マクラーレンを抜き去るシーンに世界中のファンは夢と感動を味わうこととなった。この年、琢磨は合計3ポイントを獲得、ドライバーズ選手権で17位、コンストラクターズ選手権では9位に輝いている。
▲2007_F1_Canada
2008
SAF1で3シーズン目となる2008年は、琢磨にとってもチームにとっても苦難の年となる。この年からトラクションコントロールがレギュレーションで禁止されたことを受け、どのチームもスタビリティを重視したエアロダイナミクスを開発してきたのに対し、2007年モデルのホンダF1をベースとするSA08は従来どおりのピーキーな空力特性を有し、ドライバーを手こずらせた。さらに、チームの財政難は危機的な状態に陥り、ほぼ“ぶっつけ本番”の状態で開幕戦オーストラリアGPに臨むことになる。19番グリッドから挑んだこのレース、琢磨は32周目にギアボックス・トラブルのためリタイアに追い込まれた。第2戦以降も16位、17位、13位と苦戦が続いたが、財政難のため、チームは第4戦スペインGPを最後にF1からの撤退を決定、琢磨のF1参戦にもここで一応のピリオドが打たれてしまう。
▲2013 Jerez test
もっとも、SAF1の撤退後も、琢磨はF1復帰を目指して精力的に活動していた。そしてその成果はトロロッソのテスト参加という形で実る。琢磨はまず9月にヘレスでトロロッソのステアリングを握ると、11月にバルセロナ、12月に再びヘレスでトロロッソのテストに参加。2008年レギュラードライバーのセバスチャン・ブールデや、この時点でのドライバー候補であったセバスチャン・ブエミを大きく上回るスピード、テクニカルフィードバック、安定性を披露し、チームに強い印象を与えた。そして2009年のレースドライバー就任は確実だと、この時点では多くの関係者が信じていた。
ところが、2月6日にトロロッソはブエミのチームメイトとしてブールデを起用すると発表、琢磨がF1に復帰する夢はここに潰えてしまう。