■国籍: 日本 | ■生年月日 :1977年1月28日 | ■出身地: 東京 |
■身長 :164cm | ■体重 :59kg | ■血液型: A型 |
■趣味 :ドライブ、サイクリング、食事 | ■愛車: ホンダ・ビート、ミニ・クーパー |
1996
そうした折も折、ホンダと鈴鹿サーキットの手でフォーミュラカーを用いたレーシングスクール“SRS-F”が設立されたことを雑誌で知り、ここを足がかりにしてモータースポーツの世界に飛び込むことを決心する。そして、まずはレーシングカートに挑戦。入門した「アルデックス・ジャパン」の秋山昌夫代表から手ほどきを受けた琢磨は、当時、極めつけの難関といわれたSRS-Fに一発で合格したが、これは年齢制限ギリギリの、いわば最後のチャンスを生かした入学であった。
▲TAKUMA 1997 SRS-F
1997
1997年は大学を休学してSRS-Fとカートに専念する。スクール生のなかにはカートの全日本チャンピオンなど、遅咲きの琢磨とは比べ物にならないほど経験豊富な選手もいたが、琢磨は入学した直後からそうしたスクール生はもちろんのこと、時には講師陣さえ置き去りにするような速さを披露、ここで文句なしのトップでスカラシップを獲得し、翌年の全日本F3選手権へのデビューを決める。あわせて、中谷明彦が主宰するドライビングアカデミー「中谷塾」も受講、こちらも主席で卒業した。
▲TAKUMA 1997 Kart
▲TAKUMA 1997 SRS-F
1998
1998年、琢磨は名門チームの無限×童夢プロジェクトより全日本F3選手権への参戦を果たすが、F1ドライバーとなるにはイギリスで活動する以外に道はないとの信念からシーズン半ばに渡英し、ヨーロッパのレースに参戦する道を模索する。
ただし、いきなりイギリスF3選手権に挑戦することはしなかった。F1への登竜門として知られる同選手権は、世界の強豪が集まる激戦区。英語も満足に話せなければイギリスのサーキットを走った経験もなく、ヨーロッパのチームがいかにレースを戦っていくかさえ知らないようでは、どんなにスピードに自信があっても成功は覚束ないことを、琢磨自身が熟知していたからである。しかも、F1関係者も注目するイギリスF3での失敗は2度と取り返すことができない。そうしたリスクを回避するため、琢磨はまずフォーミュラ・ヴォクスホールJr.に出場、続く1999年にはEFDAユーロシリーズ(かつてのフォーミュラ・ヴォクスホール・ロータス)に参戦し、雨のレースではすべて優勝するという活躍を示す。いっぽう、シーズン後半にはイギリスF3選手権のナショナルクラスにも出場し、翌年に向けての実戦経験も積んだ。
▲TAKUMA 1999_F-Opel_Donington
▲TAKUMA 1999_F-Opel_Monza
2000
迎えて2000年、琢磨は満を持してイギリスF3選手権への挑戦を開始する。マネジャーのアンドリュー・ギルバート-スコットと共に琢磨が選んだチームは、どちらかといえば新興勢力のカーリン・モータースポーツだった。トレヴァー・カーリン率いる同チームは設立間もないにも関わらず、スタッフはベテラン揃いで、それでいながら組織としての若々しさを保っている点が琢磨とアンドリューの気を惹いた。ふたりの見立てどおり、カーリン・モータースポーツはトップチームに遜色のないポテンシャルを有していた。確かに、つまらないミスを犯すこともあるにはあったが、琢磨たちが初年度の目標としていた「まずはドライバーとしての速さを見せる」という目的を果たすには充分で、イギリスF3ではこの時点での日本人最多となる4勝を挙げたばかりか、ノンチャンピオンシップのスパ・フランコルシャンでも優勝、さらにザントフールトやマカオなどのインターナショナルレースでもトップと伍して戦える可能性を示したのである。
この年の終わり、琢磨はF1マシーンのステアリングを握るチャンスを得た。イギリスF3での奮闘振りに関心を抱いたエディー・ジョーダンが招く形で、ジョーダンEJ-10無限・ホンダを操ることになったのだ。12月7日、ヘレスで行なわれたテストは、残念ながら昼過ぎから雨が降り始めたためにわずか半日で終わったが、F1ドライバーになるという琢磨の夢は、この日、漠とした目標から現実的な可能性に転じたといえる。
こうした流れをさらに加速させたのが、そのわずか10日ほど後に参加したBARホンダのオーディションである。“ドライバーズ・ディベロップメント・プログラム”と名づけられたこのプログラムは、BARが若手ドライバーの育成を目的として実施したもので、このときは琢磨と1999年イギリスF3チャンピオンのマーク・ハインズが候補生として参加した。バルセロナで行なわれた2日間のテストで、琢磨はコンスタントにハインズを上回るスピードを発揮。こうした結果を受けて、後日BARホンダは琢磨をテストドライバーとして起用することを正式に決定したのである。
F1チームのテストドライバーに抜擢された琢磨に残された課題はただひとつ、2001年イギリスF3チャンピオンに輝くことだった。前年に続いてカーリン・モータースポーツから同シリーズに参戦した琢磨は、開幕直後の4戦こそ勝ち星がなかったものの、第5戦ドニントンパークでシーズン初優勝を遂げると破竹の快進撃を始め、終わってみれば26戦中優勝12回、ファステストラップ15回、ポールポジション6回をマークしてチャンピオンシップを獲得しただけでなく、シルヴァーストーン、ザントフールト、そしてマカオで開催された国際F3レースも制し、名実共にF3ドライバーとして世界の頂点を極めたのであった。
もはや琢磨がF1ドライバーとなるのに何の障害も残されていなかった。2001年10月、琢磨はジョーダン・グランプリのドライバーとして2002年シーズンのF1に参戦することを正式に発表する。初めてレーシングカートに乗ってからわずか5年でF1に辿り着くとは、現在のモータースポーツ界では奇跡に近い快挙だといえよう。